伝統のまつり

にわかとは

美濃流し仁輪加

「にわか」とは、「落ち」のついた即興の喜劇です。2~3人の役者が登場して、ユーモアたっぷりに物語を展開し、最後に「落ち」がつく寸劇です。江戸時代の半ば、京、大阪、江戸で流行した「にわか」が全国に広がりました。美濃に伝わったのは江戸時代の末期頃だといわれています。現在、全国で継承されている地域は、博多、大阪、熊本など約20ヶ所ほど確認されています。その中でも美濃にわかは、お囃子を演奏しながら町の辻つじで上演してあるくので、特に「流しにわか」と呼んでいます。


「落ち」

「にわか」の最も大切な部分は最後につける「落ち」です。この「落ち」の出来次第で「にわか」の評価が左右されます。「落ち」にもいろいろ種類がありますが、多くは「地口落ち」といって、同じ発音でも意味の違う言葉(同音異義)の掛合わせが一般的です。例えば、「菓子屋のことなら、いい餡(案)がつくれる」、「冬の北陸のことなら、雪(行き)が心配や」などです。美濃にわかに限って「物落とし」はやらないという不文律があります。「茶碗」や「カレンダー」などの物を出して、その物で「落ち」をつけることはしないことになっています。


「エッキョウ」

「にわか」が終わると、演者も囃子方も声を揃えて大声で「エッキョウ」と叫びます。これは終了を示す囃子言葉ですが、その由来には諸説があるようです。江戸の終り頃住んでいた「にわか」の好きな恵喬というお坊さんに関係があるとか、「ええ興じゃった」がなまってエッキョウになったとかいわれていますが、定説はありません。


にわか車とにわか囃子

美濃流し仁輪加

「にわか」は、各町内の若衆連名を染め抜いた印半纏を羽織った若者たちによって、美濃まつりの夜に演じられています。にわか車は、台八車かリヤカーの中央に2メートルほどの松を立て、10数個の赤丸提灯に灯を点して、大太鼓、小太鼓、篠笛、鼓、三味線、摺り鉦などの和楽器を演奏しながら町の辻つじで「にわか」を演じます。演奏する囃子は各町内によって独特なもので、若衆連によって大切に受け継がれています。江戸時代から受け継がれた古い曲から、昨年作曲された新しい曲まであり、美濃全体で30曲以上を数えることができます。これは全国的にも珍しく美濃にわかの誇りです。

にわかの歴史

にわかのはじまり

「にわか」のはじまりについては諸説あるが、美濃にわかの源流は、江戸時代後期の歌舞伎の隆盛と深い関係があると考えられる。歌舞伎が一般大衆に持てはやされるようになり、その一節が俄芝居として、素人の間で楽しまれた。即興劇、すなわち俄芝居であり、お座敷など酒席で行われるようになった。それに洒落っ気が加わり、落語のような落ちをつけることになり、現在の「にわか」の形が定着した。古い形をよく受け継いでいるのは「大阪仁輪加」であろう。「大阪仁輪加」の演目の一つに三爺笑というのがある。
忠臣蔵の与市兵衛、沼津の平作、浪速鑑の義平次の三人の老爺を登場させ、三つの芝居を適宜からませて、それぞれの見せ場をつくり、最後は「七十の手習い」をうまく落ちとしている。扮装もしぐさも本来の芝居のまねをしながら、歌舞伎の面白さを満喫できる「にわか」の完成作品である。「歌舞伎にわか」の古典として上演されているが、素人芸から俄師という職人芸とし、現在も受け継がれており、各地に残る素人にわかとは異なっているが、歌舞伎と「にわか」の関連を示す貴重なものといえよう。現在は落語家、露の五郎氏を中心にした集団に、大阪仁輪加は受け継がれている。


にわかの変遷

歌舞伎をもとにした素人芝居「にわか」が、全国的にもてはやされるようになったのは、江戸時代後期かららしい。各地に伝えられた「にわか」には大きく分けて二種の形態をとる。一つは祭礼行事として神社に奉納するものである。他方は、神社への信仰心よりも祭礼を楽しむ若衆行事としての「にわか」である。神社境内に舞台をつくる高知の「佐喜浜仁輪加」や、神社に集まった「だんじり」で演じられる「河内仁輪加」がそれである。「博多仁輪加」は、神社奉納よりも街角で演じ、祭礼を楽しむ。博多気質が「にわか」を盛り立て、歌舞伎を抜け出し、社会事象を笑いとばし、風刺をきかせた半面使用の独特のスタイルの「にわか」で全国的によく知られている。


上有知流しにわかの歴史

上有知(旧美濃町)で「にわか」が行われるようになったのは江戸時代末期からと考えられる。港町の町内若衆連の記録によると、文政の頃(1816年)にニ若、俄などの記事があり、岐阜より俄師匠を招くとか、鵜沼から三味線師匠に来てもらうなどと書かれている。港町に山車はあったが、山車ばやしに三味線は古来使用されてなく、「にわかばやし」の指導であったらしい。江戸時代の記録に一の中町扇屋で「にわか」をやった時、使用人が酒に酔い「にわか」の邪魔をしたので、腹を立てて帰ったいきさつも記されている。江戸時代の上有知「にわか」は、『所望』という声がかかると、希望のあった家の土間で「にわか」を演じたようで、その所望された家からもらう酒、祝儀が若衆連には大きな楽しみであったらしい。所望の声がかかるように、「にわかばやし」をやりながら街を流して行くので、流しと「所望にわか」とは、密接な関連がある。「博多仁輪加」も、昔は「所望にわか」であったという。博多では、「にわか」を演じた家には、笹の小枝を門口に刺して帰り、翌日笹を取りに行き、その節、祝儀を受け取ってきたという。流しの囃も現在は「博多どんたく」だけであるが、昔の囃として美濃と同じ「春道」をやっていたと伝えている。「にわか」は各町内では若衆連の自由意志で行われ、必ずしも全町内でやったものではないらしい。ある町内では篠田和兵衛という人が大阪で「にわか」を見て町内に伝えたという。それは、万延(1860年)頃である。各町それぞれ、「にわか」のはじまりには差があったらしい。明治時代に堀源造、山口弥一郎などが「にわか」を盛んにし、巧者の評判が高かったというが、各町内に何人かの名手が現れ、その人達の活躍で、「所望にわか」から「辻にわか」になり、町内所定の場所で演じる「美濃にわか」の今日の姿が完成した。