「にわか」のはじまり

「にわか」のはじまりについては諸説あるが、美濃にわかの源流は、江戸時代後期の歌舞伎の隆盛と深い関係があると考えられる。歌舞伎が一般大衆に持てはやされるようになり、その一節が俄芝居として、素人の間で楽しまれた。即興劇、すなわち俄芝居であり、お座敷など酒席で行われるようになった。それに洒落っ気が加わり、落語のような落ちをつけることになり、現在の「にわか」の形が定着した。古い形をよく受け継いでいるのは「大阪仁輪加」であろう。「大阪仁輪加」の演目の一つに三爺笑というのがある。

忠臣蔵の与市兵衛、沼津の平作、浪速鑑の義平次の三人の老爺を登場させ、三つの芝居を適宜からませて、それぞれの見せ場をつくり、最後は「七十の手習い」をうまく落ちとしている。扮装もしぐさも本来の芝居のまねをしながら、歌舞伎の面白さを満喫できる「にわか」の完成作品である。「歌舞伎にわか」の古典として上演されているが、素人芸から俄師という職人芸とし、現在も受け継がれており、各地に残る素人にわかとは異なっているが、歌舞伎と「にわか」の関連を示す貴重なものといえよう。現在は落語家、露の五郎氏を中心にした集団に、大阪仁輪加は受け継がれている。

にわかの変遷

歌舞伎をもとにした素人芝居「にわか」が、全国的にもてはやされるようになったのは、江戸時代後期かららしい。各地に伝えられた「にわか」には大きく分けて二種の形態をとる。一つは祭礼行事として神社に奉納するものである。他方は、神社への信仰心よりも祭礼を楽しむ若衆行事としての「にわか」である。神社境内に舞台をつくる高知の「佐喜浜仁輪加」や、神社に集まった「だんじり」で演じられる「河内仁輪加」がそれである。「博多仁輪加」は、神社奉納よりも街角で演じ、祭礼を楽しむ。博多気質が「にわか」を盛り立て、歌舞伎を抜け出し、社会事象を笑いとばし、風刺をきかせた半面使用の独特のスタイルの「にわか」で全国的によく知られている。

上有知流しにわかの歴史

上有知(旧美濃町)で「にわか」が行われるようになったのは江戸時代末期からと考えられる。港町の町内若衆連の記録によると、文政の頃(1816年)にニ若、俄などの記事があり、岐阜より俄師匠を招くとか、鵜沼から三味線師匠に来てもらうなどと書かれている。港町に山車はあったが、山車ばやしに三味線は古来使用されてなく、「にわかばやし」の指導であったらしい。江戸時代の記録に一の中町扇屋で「にわか」をやった時、使用人が酒に酔い「にわか」の邪魔をしたので、腹を立てて帰ったいきさつも記されている。江戸時代の上有知「にわか」は、『所望』という声がかかると、希望のあった家の土間で「にわか」を演じたようで、その所望された家からもらう酒、祝儀が若衆連には大きな楽しみであったらしい。所望の声がかかるように、「にわかばやし」をやりながら街を流して行くので、流しと「所望にわか」とは、密接な関連がある。「博多仁輪加」も、昔は「所望にわか」であったという。博多では、「にわか」を演じた家には、笹の小枝を門口に刺して帰り、翌日笹を取りに行き、その節、祝儀を受け取ってきたという。流しの囃も現在は「博多どんたく」だけであるが、昔の囃として美濃と同じ「春道」をやっていたと伝えている。「にわか」は各町内では若衆連の自由意志で行われ、必ずしも全町内でやったものではないらしい。ある町内では篠田和兵衛という人が大阪で「にわか」を見て町内に伝えたという。それは、万延(1860年)頃である。各町それぞれ、「にわか」のはじまりには差があったらしい。明治時代に堀源造、山口弥一郎などが「にわか」を盛んにし、巧者の評判が高かったというが、各町内に何人かの名手が現れ、その人達の活躍で、「所望にわか」から「辻にわか」になり、町内所定の場所で演じる「美濃にわか」の今日の姿が完成した。